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作品展について

 

司会:−−それから作品展もなさった。−−

茶珍:昭和45年が作品展の第1回目ですから、その1年前からしてたんでしょうね。

司会:−−1回目の出品者がのべ122名で、348点の作品が出品されましたね。かなり沢山の人が出されたのですね。−−

茶珍:はい、よく覚えています。よくやっていました。お稽古すべてやっていました。

進行係:押し絵、貼り絵などありましたね。昆さんも一緒でしたね。お稽古は大変盛んでしたよ。他に日本画、書道も
あって、書道は、辻先生。お茶は、相馬先生。日本画は、冨士田東薫先生、七宝は私、留井がやっていました。

茶珍:その頃は楽しかったですよ。

司会:昭和44年には見学会などが始まり、今のバス旅行とはちょっと違った感じで、わりにまじめに豊中市の庄内下
水処理場など飯田さんのご紹介とは思いますが、地域の中でいろいろな施設を回り、関心を深めたい意思がありま
すね。

−−飯田さんの先導で勉強会のようなものをしていらしたのですね。昭和46年には清水焼。昭和48年には信楽焼。2回目からぽつぽつ楽しみに回っている。こういうのをやってみたらという発想はどういうところから出てきたんですか。−−

岩田:これはみな、樋口さんでしたね。

司会:樋口さんがこうしたら、ということで皆さんを動かされていたのですね。

佐野:金蘭短大が建つ前にも見に行きましたよ。万博のある前で、鬱蒼たる山の中でした。やはり相談はありました
よ。

昆:わたしが樋口さんにとっつかまりましたのは、昭和40年すぎころでした。子どもも手を離れたころでしたので出て行
きましたら、またいろんなことを手伝えということでした。さきほど岩田さんがおっしゃいましたように、いろんなおけい
こ、4部門のお稽古がはじまりまして、私は書道の辻先生、日本画の冨士田東薫先生、そのお二人とも私の母と同じ
年代大正8年卒ぐらいの方で、本当に楽しい会でしたね。最初は樋口さんのお宅でしていたのですが、生徒さんがふ
えて手狭になってきましたので緑丘の婦人舎館に移りました。月に1回とか2回とか集まって、今もその時の作品が残
っていますが、本当に薫陶をいただいて楽しいお稽古でした。
その結果が昭和45年から47年にかけての作品展で、その時の写真も全部残っております。冨士田東薫先生は東薫
という雅号をお持ちでしたので、私達も何かしら作ろうと、それぞれ雅号と落款を作りましたのも楽しい思い出です。
その折の作品がだいぶと、溜まっています。その作品、絵も書も、が素晴らしいものばかりで、豊中支部ばかりでなく
遠く堺支部からの出品もありましたよ。

進行係:辻先生には絵更紗を教えていただきましたね。

茶珍:蛍池の公民館で書道のお稽古をしましたね。

進行係:樋口さん宅から出発して、いろいろなパートがその後発展しましたね。島熊山の公民館でもしました。永田さ
ん 三浦さんも来ていただいて晩遅くまで、ご飯をいただいたりしましたね。

茶珍:楽しいですよね。あのころ。

進行係:昭和44年から45年ころのことですね。樋口さんはそのためにお部屋まで改造拡張されたぐらいですから。

土井:はっきりしませんのですけど、たぶん昭和45年頃だと思うのですが、手芸の講習会を催されまして、淡路に同じ
く卒業生の竹田さんという方が手芸の店を開いてらして、その方を講師に、みんなのための材料を運びに淡路に行き
その方をご案内して、池田の公民館でメガネ入れや手提げ袋など、教えていただいたことも楽しい思い出です。

下ノ村:皆さん驚かれると思うのですが、いろんな講師全部卒業生であるということが良かったですね。

降井:とにかく樋口さんのお指図どおりでしたが、一緒に役をなさっている苗代さんとご一緒させていただいて、何もか
も苗代さんにしていただいて嬉しく思っています。

進行係:山西さんにはいつもお世話になっています。

山西:いえいえ、主人の母が悪うございましたので、充分なお手伝いも何も出来ませんでした。

進行係:このホテル・アイボリーが出来ましたのは、いつ頃だったでしょうか。

山西:昭和45年4月でございます。

進行係:ここのオープンの時はみんな喜んで、それまでは料理教室など使わせてもらっていましたが、山西さんとこが
ホテルを建てられると聞いて、みんな待ち遠しく、それ以来、何かにつけ使わせていただいてます。本当にいつもあり
がとうございます。

田丸:私が参加しましたとき、もう、作品展はなかったのですが、西岡さんとご一緒で丁度、乗岡先生のお宅が近くだ
ったもので、手伝えとおっしゃったので、それから昭和20年卒4人で樋口さんのお宅に寄せていただいて、住所録の
整理などさせていただいたと思うのですが……

西岡:地域でお当番が決まっていましたよね。

田丸:そうですよね、支部の地域も増えて私達の東淀川も入るようになりましたので、池田のお酒「呉春」見学や、昭
和51年には崇禅寺の仇討ち馬場などにも行きました。

西岡:丁度その頃豊中支部から阪急支部と名称が変わった頃で、変わって最初の当番が私たちでした。

司会:ありがとうございました。表面的に出てこないところで樋口さんのお宅を中心にいろいろなさっていたことがよく
わかりました。

 

                                                            

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